河村清明(かわむら・きよあき)
1962(昭和37)年、山口県生まれ。北海道大学文学部卒業。(株)リクルート勤務ののち、96年より文筆活動に入る。『馬産地ビジネス』『ミスター・ジャパンカップと呼ばれた男』『ウオッカの背中』など著書多数。原作を手がけた競馬マンガに『ウイニング・チケット』(『ヤングマガジン』連載中)がある。東京都府中市に暮らす。
オグリキャップの引退レースについては、実はひとつ、これまでに書かなかった個人的な思い出がある。
単勝を1万円買い求めたその場所は、中山ではなく、開催のない小倉競馬場であったのだ。
一風変わった行動には、それなりのいきさつがあった。
当時の僕は、リクルートという会社に勤めるサラリーマンだった。社宅が中山に近いこともあって、それこそ毎週のように指定席に入ったものだ。カード予約なんて便利なシステムは当たり前だがまだなく、年末年始の開催など、ひたすら寒さに耐えて長い列に並ぶしかなかった。
始発電車に乗って、東中山駅から競馬場まで歩く。そして、閉ざされた門の前に座る。
武豊とオグリが空前の競馬ブームを作り出した頃だから、徹夜で並ぶ人がたくさんいた。彼らは仲間でもあり、同時に、大切な指定席を奪い合うライバルでもあった。
やがて明け始めた冬の空を見上げて、缶コーヒーをすすることが多かった。
今、そうした光景を思い出すとき、心の奥底のあたりが、いつもシンと静まり返る。毎週末、たいへんな思いをしてはいたが、やはり幸せだったのだ。待つという行為から遠ざかった事実は、つまりは年を取ったことを意味する。
悔しく、ちょっと淋しい。
有馬記念の前の週にも、女房とともに指定席へすべり込んだ。スプリンターズSの当日だった。
翌週の有馬記念を、つまりオグリの引退レースを、誰もが気にかけていたのは間違いない。有馬当日の指定席券はもちろんのことプラチナペーパーであり、混乱を避けるためだろう、風変わりな発売方法が採られていた。
同じ開催の指定席を購入した人にだけ、クジを引く権利が与えられる。みごとに当たりを引けば、有馬当日の、同じタイプの指定席にありつける、という流れだった。
もちろん、僕にも権利があるから、気合を込めてクジの箱に手を突っ込んだのだ。が、はずれた。
まあ、それは予定通りだった。抽選の対象は、有馬の前の3週間になるから、つまり確率は6分の1である。当たらないと思えばこそ、先に予定を組んでいたのだ。
ところが、直後に歓声があがった。女房ではないか。この手の抽選にめっぽう強い彼女は、実に堂々とプラチナチケットを引き当てたのである。
ただし、一枚。
微妙な展開に、僕は困ってしまった。
いつもならば自分が受け取り、一人で競馬場へ行く。女房はそんなにも競馬が好きではないから、もめることはない。
ところが、週が明けたら二人で、山口県の実家と九州まで出向く予定になっていた。昔のリクルートには「3年間働けば1ヶ月の有給休暇が取れる」というありがたい制度があって、それを利用しつつ、早めの冬休みを計画していたのである。
悩んだ。
なにせオグリの引退レースだ。今なお一番好きな馬であるのだから、近くで応援したかった。最後の走りを指定席で見られるなんて、まさしく夢のようではないか。
それでも、予定を変更すれば、航空券も宿も取り直さなければならない。時期が時期だけに、たいへんな作業になるのは間違いなかった。
結局は、いくつかの理由から、僕は有馬記念をあきらめたのだ。
まずは前の年にこんなことがあった。
10月の終わりに入籍した僕は、有馬記念の直前に、会社から10万円の結婚祝いを受け取った。すると、あろうことかそれをそのまま、オグリ-スーパークリークの一点に投入したのである。
結果はご存知のとおりだ。
相談すらされなかった新妻は呆れ、激しく夫をなじった。そんな経緯があったからこそ、競馬で再び勝手な行動に出るわけにいかなかったのだ。強く自分を主張すれば、離婚へと発展しかねない情勢でもあった。
もうひとつの理由は、父の病気だった。
ガンを患ったばかりであり、手術後の様子が気になっていた。だから、なるべく早く実家に顔を出したかった。
そして最後にもうひとつ、その指定席をプレゼントしたい人の存在があった。付き合いの深かったデザイン会社の社長・Nさんのことである。
Nさんは人後に落ちない競馬好きであり、僕の仕事の指南役でもあった。打ち合わせと称して二人でよく喫茶店に行き、スポーツ新聞を広げたものだった。
バブル景気が、いよいよピークを迎えようとしていた。
Nさんの会社も多忙を極めたが、一方で思わぬつまづきに襲われてもいた。
友人の借金の保証人になったのが、そもそもの始まりだった。やがてその友人はゆくえをくらましてしまい、多額の借金がそのままNさんにのしかかってきた。
焦ったNさんは、一気にかたをつけるためだろう、先物取引に手を出した。結果として、負債は数倍にも膨れ上がり、もはや会社を整理するしか取る道がなくなっていた。
つまり、Nさんが丸裸になる年末が迫っていた。そんな時期であったからこそ、僕はNさんに、有馬の指定席をプレゼントしたかったのだ。
1990年12月23日の日曜日。
休暇途中の僕は、実家から小倉競馬場に急いだ。テレビではやっぱりダメだった。オグリを少しでも身近に感じたかった。そして、最後にもう一度、応援馬券を買いたくもあったのだ。
正直に言えば、オグリに勝ち目はないと思っていた。でも、中山にいない自分に引け目を感じていたのだろう、目をつむって窓口へと1万円を差し出した。自分にしてみれば、究極の心情馬券だった。
レースについては、ここでは繰り返さない。
タイムうんぬんを指摘する人がいるが、ともあれオグリは強かった。あの日の走りには名馬の意志がみなぎっていた。そしてもたらされた奇跡に、競馬を取り巻く誰もが幸せな気分になれたのだ。
ウイニングランが始まったときのことだ。小倉のターフビジョンにもオグリと武の姿が大映しになった。
すると突然、誰が始めたものか、スタンドに拍手が沸き起こったのだ。その拍手は静かに広がり、やがて馬のいない競馬場を覆いつくした。
あんなにも暖かな競馬場の雰囲気を、僕は他に知らない。そこに居合わせた偶然が、オグリの勝利とともに、実にありがたく感じられてならなかった。
オグリの最後の頑張りは、Nさんのその後にもきっと力を与えたはずである。だが、しばらくして戻った職場に、Nさんからの年賀状は届いていなかった。
いろんな思いが折り重なっていった。
結局、僕はあの単勝を換金しなかった。いや、何度も誘惑に駆られたが、どうしてもできなかった。
(文中敬称略)