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ウイニングチケットのお別れ会が行われる

  • 2023年06月09日
  • ウイニングチケットのお別れ会
    ウイニングチケットのお別れ会
  • ウイニングチケットのエピソードを披露した藤原悟郎藤原牧場代表取締役
    ウイニングチケットのエピソードを披露した藤原悟郎藤原牧場代表取締役
  • 早朝から多くのファンが参列した
    早朝から多くのファンが参列した

 5月27日、浦河町西舎にあるうらかわ優駿ビレッジAERUにおいて、ウイニングチケットのお別れ会が執り行われた。

 ウイニングチケットは1990年3月21日に、父はトニービン、母はパワフルレディの6番目の子として、新ひだか町静内御園にある藤原牧場で誕生。1992年9月に函館競馬場の新馬戦でデビューした。主な勝ち鞍には1993年の日本ダービー(G1)、弥生賞(G2)、京都新聞杯(G2)があり、生涯成績は14戦6勝になる。1995年に種牡馬入りし、2005年に種牡馬生活を引退。種牡馬引退後にうらかわ優駿ビレッジAERUに功労馬として入厩し、2006年度から引退名馬繋養展示事業助成対象馬になった。ファンからはチケゾウの愛称で親しまれ、たくさんの元気を提供し、幅広い年代から愛される日々を送っていたが、本年2月18日に33歳でこの世を去った。

 お別れ会には、田名部昌広うらかわ優駿の里振興株式会社副社長、藤原悟郎藤原牧場代表取締役、松田有宏浦河町副町長、浮島理JRA日高育成牧場場長のほか約250人のファンが参列。田名部副社長は「本日は早朝からこんなにたくさんのみなさまにお集まりをいただきまして、ほんとうにありがとうございました。さて、日本ダービー(G1)を制した名馬、ウイニングチケットは、2月18日、33歳で天国へ旅立ちました。わたしども深い悲しみでございましたけど、全国各地からたくさんのご供花、励ましの言葉をいただきました。この場をお借りしてみなさまがたに改めてお礼申し上げます。みなさまご存じのとおり、晩年のウイニングチケットはG1馬の最高齢で、さらには人気ゲームのウマ娘に登場いたしまして、たいへんな人気でございました。心に生きる永遠の名馬を、なんとか最後のステージをつくりたいと、そう願って今日この場をご用意させていただきました」とあいさつした。

 太田篤志うらかわ優駿ビレッジAERU乗馬課マネージャーは「ウイニングチケットは、昔から走ることが大好きで、放牧するといつも放牧地を駆け回り、それがいつのまにか名物のようになり、朝早くからファンの方が見学に来るようになりました。30代になってからも、変わらず走り回る姿や毛艶の良さを見たファンのかたからは、年齢詐称してるのではないかと疑われるほど元気な様子でした。2021年には存命するG1馬では国内最年長の馬になるなど話題になることも増え、元気に余生を過ごしている姿は、多くファンに元気や笑顔を与えてくれたとおもいます。数年前からはウマ娘の影響もあり、20代、30代の方が爆発的に増え、晩年はとても幅広い層に愛されることになりました。ウイニングチケットは33年の馬生のなかで、競走馬、種牡馬、引退馬として、ものすごい人々に影響を与え、競馬だけでなく乗馬や馬そのものの魅力を、多くの人に知ってもらうきっかけになった名馬でした。わたしたちは、彼のおかげで多くの人と出会い、つながることができました。チケットからしか学ぶことができないことがたくさんありました。彼から教わったことをいまいる馬たちに伝えていくとこが、彼への恩返しになればとおもいます。心からありがとうと伝えたいです」と追悼。

 藤原代表取締役は「このように多くのかたにご参列いただきましたことを、心からお礼申し上げます。ありがとうございます。1986年の天皇賞(秋)(G1)を勝ったサクラユタカオー、次の年に年度代表馬になったサクラスターオーは、ウイニングチケットと同じ血統になります。スターオーが弥生賞(G2)を勝ったあとに先代が急に亡くなり、わたしが急遽、牧場を継ぐことになりまして、ひじょうにプレッシャーがありました。そのあと5年ほどしてウイニングチケットが出て、とても自分の気持ちが楽になったというか、わたしを助けてくれたと、ほんとうに心からありがとうと申し上げます。パワフルレディにトニービンを種付けいたしまして、ウイニングチケット、リボンストライプ、スカラシップという全きょうだいが3頭います。体型を足して2で割るという、わたしが基本とする配合に、ひじょうに当てはまる配合だったとおもっています。3頭とも良い成績をあげてくれて繁殖になってもいい子を出してくれました。ウイニングチケットは、生まれたときからひじょうに活発な子どもで、ものすごく運動神経が発達した馬で、あまり大きくないですが、無駄肉の付かないようなスカッとした体をしておりまして、垂直飛びでも1mくらい飛び上がっていました。離乳後、自分の体の成長と運動神経が伴わなかったのか、種子骨炎というたいへんな病気になり、3か月ほど厩舎に入れっぱなしで朝夜看病したことがあります。それがいい方向に出たのか、その後完治して競走馬としてデビューを迎えることになりました。ホープフルSを勝ったころに、いまはお亡くなりになられた伊藤雄二調教師に『先生、これは少し(クラシックが)見えてきましたね』と聞いたら、先生から『なんとか見えましたね』という返事をいただきました。日本ダービー(G1)まで行ってくれて、ほんとうに良かったとおもっています。お別れの会を開いてくださったアエルのかたがたには、ほんとうにありがとうございます。これで納骨することができます。生まれ故郷の新ひだか町静内にありますオーマイホースパーク内に墓碑もできております。お時間がございましたら後日お参りいただければ幸いと存じます」と愛馬を偲んだ。

 お別れ会では1993年の日本ダービー(G1)のレースを放映。ウイニングチケットが先頭でゴールインすると参列者から拍手が送られた。参列者は順番に祭壇で手を合わせウイニングチケットを追悼。悲しみで肩を震わせる姿が見られた。