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追悼~サクラチヨノオー

  • 2012年01月13日

 もう30年くらい前のことになるが、今も強く印象に残る1枚の写真がある。1982年の日本ダービー。圧倒的な1番人気に支持されながらも3着に敗れたアズマハンターが洗い場につながれて、手入れを受けている。その前では騎乗した小島太騎手(現調教師)が膝を抱えたまま座り込んでいた。

 当時、現場に居合わせたわけではないのでどんな会話が交わされたかはわからない。会話はなかったかもしれない。それでも、ダービーというレースの重みを知るには十分な1枚だった。

 それから6年後。5月の柔らかな陽射しを受けながら、サクラチヨノオーの鞍上で喜びを噛みしめていた小島太騎手がいた。

 昭和の名横綱といわれた千代の富士関から名前の一部をもらったサクラチヨノオーは、派手さはなかったものの実力を伴った名競走馬だった。460キロ台の馬体は決して大柄ではないが、筋肉質でスマート。薄い皮膚はその父マルゼンスキーゆずりでバランスのよい馬体はパドックでも目立つ1頭だった。2歳時は4戦3勝。朝日杯3歳S(G1)では逃げようとするツジノショウグンのインコースからピッタリと馬体を併せるようにして、これを競り落とした。

 7戦4勝で迎えた日本ダービー(G1)。1番人気のサッカーボーイの単勝オッズは5.8倍。そんな数字にも混戦模様が浮き彫りにされていた。2番人気は抽選をくぐりぬけた皐月賞(G1)で金星を射止めたヤエノムテキ。生産者も馬主も70歳を超えて初のダービー挑戦だ。サクラ軍団はレースの17日前に前年の皐月賞、菊花賞馬サクラスターオーを失ったばかり。4番人気に支持されたコクサイトリプルはここまで3戦2勝。鞍上は、やはりダービー制覇に人並み以上の思いを寄せる柴田政人騎手(現調教師)で、5番人気はNHK杯(G2)の覇者マイネルグラウベンだった。この馬は2歳秋のデビュー戦で骨折したあとダービー出走にいちるの望みを託して全身麻酔による手術を選択。それを乗り越えてここまで駒を進めてきた。さらには6番人気のメジロアルダンは牧場悲願のダービー制覇を背負っての出走だった。それぞれが、それぞれ思いの中で迎えたダービー。最後の直線で、完全に抜け出したメジロアルダンを再び追い詰めて差し返して交わしたサクラチヨノオーに勝利の女神は微笑んだ。勝ち時計は2分26秒3。奇しくも、アズマハンターをやぶったバンブーアトラスのダービーレコードを塗り替えるものになった。

 現役引退後、静内町の静内スタリオンステーションで種牡馬となったサクラチヨノオーは12年間の種牡馬生活の中でマイターン(東海ウインターS(G2))やサクラエキスパート(愛知杯(G3))サクラスーパーオー(皐月賞(G1)2着)アドマイヤビゴール(神戸新聞杯(G2)2着)などの活躍馬を送ったが、01年の種付けを最後に新和牧場で余生を送っていた。近年では日本装蹄会の北海道研修で若い装蹄師の卵たちにダービー馬の蹄を教えるなどの役割も果たしていたが、その最期はダービー馬に相応しいものだったようだ。

 朝日杯3歳S(G1)、日本ダービー(G1)に勝ちながらも同世代にサッカーボーイ、そしてオグリキャップがいたために最優秀3歳牡馬、同4歳牡馬のタイトルには恵まれなかったが、記録よりも記憶に残る名馬になった。

 改めて冥福を祈りたい。