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追悼~バンブービギン

  • 2012年08月08日

 さらば、バンブービギン

 1989年。時代が昭和から平成へと移り変わり、折からの好景気に誰もが浮き足立ってきた。ニッポンの競馬もその例に漏れず、もっとも華やかで、それでいて騒がしかった時代。バンブービギンは、そんな時代のクラシックホースだ。奇しくもアメリカでサンデーサイレンスが生まれた1986年。その年に、この馬も産声をあげている。

 まだ20歳の武豊騎手が早くも円熟味を帯びた騎乗で勝利を積み重ね、それに誘われるように競馬場は若いファンであふれた。

 しかし、そんな華やかな時代にターフを沸かせていたのは、どちらかといえば華やかではない背景を持った馬たちだった。地方競馬出身のオグリキャップ、イナリワン。中央競馬からデビューしたスーパークリークとてエリートとは言い難い。彼らが古馬のG1戦線を賑わせている頃、世相を反映するといわれる競馬は、さらにドクタースパート、ウィナーズサークル、そしてバンブービギンという3頭のクラシックホースを世に送り込んだ。道営ホッカイドウ競馬出身の皐月賞馬、茨城県産のダービー馬、そしてダービー馬の直仔の菊花賞馬。今にして思えば、もう間もなく終焉を迎えるバブル景気を示唆し、次の時代へのヒントとなるような3頭だった。

 バンブービギンは、1982年のダービー馬バンブーアトラスの3世代目産駒。父はダービーをレコード勝ちし、菊花賞の最有力候補といわれながらもトライアルの神戸新聞杯(3着)のレース中に骨折。引退を余儀なくされた馬だ。オーナー含め関係者の無念さは、計り知れない。その無念を晴らすべく父と同じく布施正厩舎、岩元市三騎手のコンビでデビューしたバンブービギンの初戦は勝馬から3秒も離されたゴール。さらには骨折により、初勝利はダービーを目前に控えた5月13日にまでずれ込んだ。しかし、そこから条件戦を3連勝。重賞初挑戦となった神戸新聞杯(G2)は先に抜け出したオサイチジョージを捕まえることはできなかったが、最も強い馬が勝つと言われた菊花賞で、春の既成勢力を一蹴すると同時に大輪の花を咲かせた。舞台は父が無念の京都競馬場。粋なまでの神の演出であり「バンブーアトラスの仔で大きなレースを勝ちたい」と牧場自慢の繁殖牝馬をバンブーアトラスのもとへと送り続けたオーナーの執念の勝利だった。表彰台に立つ関係者の誇らしげな顔は印象的だった。しかし、バンブービギンは翌年春の天皇賞(春)(G1)を目指す過程で骨折。復帰を目指したが、度重なる脚部不安には勝てずに現役生活を引退した。まるで、菊花賞(G1)を勝つためだけに生まれてきたような競走成績だ。

 現役を引退したバンブービギンは6歳春から新冠町のCBスタッドで種牡馬となったが、交流重賞名古屋優駿(G3)2着のトウカンイーグルを出した程度で2004年の種付けを最後に種牡馬生活を終えた。その後は、自宅を兼ねた事務所の窓から見える放牧地で悠々自適の生活を送ることになるのだが、思い出すのは、いつまでもやんちゃな気持ちを失わなかったバンブービギンのことよりも、訪ねるたびに嫌な顔ひとつせずに嬉しそうに迎えてくれた牧場主、そしてスタッフの笑顔だ。その笑顔を見れば、いかにバンブービギンという馬に誇りと愛情を持って接しているかを理解できた。去勢を行わなかった理由というのも容易に想像がつく。

 競馬と、愛馬を誇りに思う。時代に流されずに、その気持ちを持ち続けることの素晴らしさを、バンブービギンを通して関係者に教えてもらった。同牧場に残されたバンブーメモリーの健康を祈りつつ、ありがとうという言葉を届けたい。