馬産地ニュース

追悼~ダイナガリバー

  • 2012年04月27日

 北海道苫小牧市のノーザンホースパークで余生を送っていた1986年の年度代表馬ダイナガリバーが、26日早朝、せん痛のために亡くなった。29歳。4月8日にシリウスシンボリが亡くなったために存命するダービー馬としては最高齢になったばかりだった。

 記憶にも、記録にも残る名馬だった。ちょっと丸みを帯びた額からまっすぐ鼻先に伸びる大流星。顔の右半分は凛々しいが、左半分は下3分の1くらいまで流星が広がって、それがなんとも愛らしさを醸しだしていた。同パークスタッフの人気者。スタッフだけなく、ダービーから四半世紀がたった今でも、同パークを訪れる人の1番人気を譲らなかった。

 当案内所のツアーにおいても、洗い場で見学させてもらったことがある。現役時代を知らないであろうという年齢の参加者が一生懸命に写真を撮っていたのを思い出す。そして、愛情を注ぐスタッフが、敬意を持って接しているのを肌で感じた。

 「訪れる人にはとても愛想よく振る舞うのに、特に新人のスタッフなどには気の強さを見せることがあるんです。年齢を感じさせません」と厩舎スタッフの方が話していた。

 それは、ダービー馬としてのプライドであり、また“シャダイ”で馬を扱う人間に対しての洗礼だったのかもしれない。そんな役割も果たしていたようだ。

 公式発表はせん痛ということだが、29歳。サラブレッドとしては大往生だったと思う。

 そんなダイナガリバーは「社台グループ最初のダービー馬」とも呼ばれている。現在、社台ファームの代表を務める吉田照哉氏の祖父にあたる善助氏が北海道の白老町に社台ファーム(現在の白老ファーム)を創設したのが昭和3年。「昭和4年生まれの馬を対象に第1回日本ダービーが行われる」というニュースを耳にしてサラブレッドの生産を手掛けるようになったという。第1回日本ダービーにも生産馬を出走させていた社台ファームとしては、それから54年後の悲願達成。海外から種牡馬を、繁殖牝馬を積極的に導入して血の更新をはかり、当時から昼夜放牧を取りいれ、また早くから育成専用の牧場で強い馬づくりに励んできた。当時の代表、吉田善哉氏は声も枯れんばかりにスタンドから声援を送り、レース後は人目もはばからずに号泣した。その涙はひとつのことに心血を注いだ者のみが許される涙だったのかもしれない。

 2着は岡田繁幸氏が所有するグランパズドリームで、3着は浦河町の老舗、谷川牧場生産のアサヒエンペラー。ダイナガリバーのダービー制覇は、それまでリーディングブリーダー22度という社台ファームが名実ともに生産界のトップへと躍り出た瞬間でもあった。

 いま、改めて訃報を前に思い出すのは、ダービー(G1)と有馬記念(G1)に勝ったときよりも、そして種牡馬としてもG1サイアーになったということよりも、ノーザンホースパークでスタッフから惜しみない愛情を受けて暮らしていた同馬の姿だ。サラブレッドが経済動物ではなく、尊敬すべき対象であるということもこの馬から教えられた。 

 ありがとう