追悼・ドクタースパート
その訃報を聞いたときは、驚きよりも「あぁ、やっぱり」という感情が突き上げてきた。と、いうのも秋に行った「北海道馬産地見学ツアー」で日本軽種馬協会静内種馬場を訪れた際、ハクタイセイだけが展示され、ドクタースパートをリクエストする声には言葉を濁されたからだ。
「もともと心臓に持病を持っていた馬でした。ですから、そのあたりを十分に注意しながらケアをしていたのですが、今年の夏に倒れました。暑い夏が応えたのかもしれません」と中西信吾場長が教えてくれた。
それから一進一退の状況が続き、再び放牧できるまでに回復はしたのだが、重ねる年齢は確実に体力を奪い取り、厩舎で横になる時間が増えていったという。
「最期は、異常なほど食欲が増していました。もう飲めないのに水を欲しがったり、飼葉を欲したり。賢い馬ですから、今までそういったことを我慢してきたんでしょうね。できることであれば、もっと長生きをさせてあげたかったですけど手を尽くしたという意味では悔いはありません。本当の意味で大往生だったと思います」と声を搾り出した。
ドクタースパートは、道営ホッカイドウ競馬出身馬の皐月賞馬だ。地方競馬出身馬が皐月賞(G1)を勝ったのは、昭和48年のハイセイコー以来16年ぶり2頭目。ホッカイドウ競馬出身馬としては、もちろん初の快挙だった。1つ下の世代にはオグリキャップやサッカーボーイがいて、1つ上の世代にはアイネスフウジンやハクタイセイがいた。競馬が、もっとも華やかだった時代のスターホースだった。道営ホッカイドウ競馬でデビューして6戦4勝。北海道3歳優駿をレコード勝ちするとJRAに転厩し、そしていきなり京成杯3歳S(G2)に勝った。このレースにはオルフェーヴルの祖母エレクトロアートも出走していて6着。オルフェーヴルが三冠を達成した年にドクタースパートが亡くなるというのも不思議な縁なのかもしれない。それはともかく、ホッカイドウ競馬出身馬がJRAの重賞競走に勝ったのは、実はドクタースパートが最初だった。
しかし、皐月賞(G1)のあとは苦戦が続く。オープン特別や父内国産馬限定競走でも掲示板に載ることができず、再び砂を求めて南関東の帝王賞へも出走した。それでも、結果は同じだった。そんな雌伏の時を経て4歳秋にステイヤーズS(G2)をレコードで優勝。1年8か月ぶりの勝利だったが、結局、これがドクタースパートにとって最後の1戦となった。“北の野武士”は最後に意地を見せてターフを去った。
現役引退後はJBBA日本軽種馬協会の胆振種馬場で種牡馬生活をスタート。サンデーサイレンスに代表される馬たちを相手に、決して恵まれた種牡馬生活とはいえなかったが、種牡馬引退後は同協会の那須種馬場で余生を過ごし、2010年3月に静内種馬場に移動していた。
「ここに来てからは、生産者の須崎光治さんも良く会いに来てくれていました。とくに体調を崩してからは頻繁に足を運んでくれましたが、須崎さんが海外出張のときに逝ってしまったのが残念といえば残念です」と中西場長。現役時代に同馬の装蹄を行ったという田中弘祐装蹄師ら関係者に見守れられながらの生涯だった。
残念ながら、種牡馬として恵まれた環境だったとはいえないが、たくさんの人に愛された25年間だったと思う。「人間のエゴかもしれないが、生まれ故郷に戻すことが出来てよかった。安らかに眠って欲しい」と中西場長の言葉が印象的だった。