コスモバルクを訪ねて~ビッグレッドファーム
コスモバルクは、開拓者だった。
廃止寸前まで追い込まれたホッカイドウ競馬が起死回生の一手として導入した「認定厩舎制度」の第1号。そして、史上初めて地方競馬所属馬としてJRAのクラシック三冠にフル参戦。これら含めてJRAのG1競走への挑戦は史上最多の23回にも及んだ。そんなキャリアの中でひときわ異彩を放つのは、2006年5月14日、シンガポールのクランジ競馬場から届いたシンガポール航空インターナショナルカップ(G1)優勝の報。この勝利は地方競馬所属馬にとって史上初めての海外G1制覇にもなった。このようにコスモバルクという馬は、それまでの常識であるとか、ダブーと言ったものを打ち破ってきた。
しかし、あらゆる分野の開拓者がそうであるように、コスモバルクが歩んできた道もまた、自ら山谷を切り開き、そして足元をローラーで固めながら進まなければならないイバラの道だった。
当時のルールでは、地方競馬所属馬のコスモバルクがJRAのクラシックレースに出走するためには、それぞれのレースに用意された前哨戦で出走権を得なければならなかった。 上位入線が義務付けられた弥生賞(G2)はもちろん、皐月賞(G1)当日の4月18日もホッカイドウ競馬は冬期間のシーズンオフ。日中の最高気温が10度にも満たない門別競馬場で最終調整を行い、レースの度に津軽海峡を越えた長距離輸送を余儀なくされた。そしてもうひとつの見えない敵は北の大地で生まれ育ったコスモバルクにとっては初めて経験する気温。日本ダービー(G1)が行われた5月30日の東京地方の最高気温は31.7度にまで達していた。
国内ラストランは8歳暮れの有馬記念(G1)。同レース史上最多となる6度目の挑戦は16頭立て15番人気10着という結果だったが、それでも現役生活にこだわり、1度はアイルランドにわたったものの脚部不安を発症して断念。21歳になった現在は、北海道新冠町のビッグレッドファームで功労馬として余生を送っている。
「若いころに比べると多少は落ち着いてきたと思いますが、それでもまだまだコスモバルクらしさはまったくと言って良いほど失われていません」とはビッグレッドファームの蛯名聡マネージャー。
1年前に訪れたとき担当スタッフは「体も気持ちも若々しい」と胸を張っていたが、あれから1年。写真でご確認いただけるように今も毛つやは良く、馬体にハリもあって元気いっぱい。「エネルギッシュ」という表現がぴったりだそうだ。
そんな蛯名マネージャーに現役時代の思い出を訪ねると「1番人気に支持していただきながらも2着に負けてしまった皐月賞(G1)と、同世代の菊花賞馬を差し返して2着になったジャパンカップ(G1)」を挙げてくれた。同じ2着でも、その思いはまったく異なるものだったと想像するが、見るものに、そういった様々な感情を与えてくれたのがコスモバルクという馬だったのではないかと思う。
広めの放牧地を与えられ、隣にいるアドマイヤマックスとマイネルミラノに興味津々のコスモバルク。その姿は少年の気持ちを失わない大人のようにも見える。特徴的なことは「日陰が大好き」。蛯名マネージャーの言葉を借りれば「暑いのが嫌い」だそうだ。その言葉を聞いて「真夏のダービー」とまで表現された、あの日を思い出した。
「コスモバルクは、1日も長くコスモバルクらしくあって欲しい。そのために私たちはしっかりと管理をしていくつもりです。立ち寄ることがあれば、元気なコスモバルクを目に焼き付けて欲しい」というメッセージを預かった。