あの馬は今Vol.20~フェブラリーS・ライブリマウント
1995年2月18日 フェブラリーS
優勝馬 ライブリマウント
現在の繋養先 ホロシリ乗馬クラブ
やさしい目をした栗毛の馬体がちいさく見える。馬服の下からは冬毛に覆われた体を覗かせているが、不思議なもので鞍を置き、人間がまたがると馬の背筋が伸びたような気がした。
ここは新冠町ほろしり乗馬クラブ。太平洋を見下ろす丘の上に位置するこの乗馬クラブは日本でも有数の自然条件を兼ね備えた乗馬施設だ。 1995年のフェブラリーS(当時)を快勝したライブリマウントは、6年間の種牡馬生活にピリオドを打って、現在はここで乗用馬として幸せに暮らしている。「ここに来た当初はテンションがあがることもありましたが、基本的には優等生でしたね。いまは、乗用馬としてパーフェクト。度胸もあるし、初心者の方でも安心して乗ってもらえると思います」とインストラクターの山畠輝男さんも目を細める。集団放牧にも慣れ、多くの仲間たちと戯れているその姿からは、競馬場で見せた鬼神のような脚は想像できない。
そういえば「私、育成時代のライブリマウントに乗ってました」という女性に会ったことがある。小柄なその女性には失礼かもしれないが、育成時代の優等生ぶりを彷彿させた。
ライブリマウントは、1991年生まれ。同期にはナリタブライアンのいる世代だ。新馬、特別をともにダート戦で記録したライブリマウントは、一度はクラシックへの参戦を試みたが、芝コースで大敗するとあっさりと見切りをつけてダート路線を歩むようになった。ダービーの頃には北海道に移動し、そこできっかけをつかむと同年の秋からは破竹の連勝街道を突き進む。そして、条件戦を快勝するとウインターS、平安S、そしてフェブラリーSと3連勝。当時、ダート重賞3連勝は史上初の快挙でもあった。その後、帝王賞、ブリーダーズGCを連続レコード勝ち、そして岩手公営の南部杯ではそれまで41戦38勝2着3回という怪物トウケイニセイを3着に下して連勝記録を「7」とした。
中央、地方の強豪を次々となぎ倒していくその姿はダート交流時代の新しいヒーローそのものだった。しかし、東京大賞典で不可解な4着に敗れると、まるで燃え尽きたかのように不振が続く。それでも、第1回ドバイワールドCに日本代表として出走し、一度はハナを奪って場内を沸かせた。結果は世界の強豪シガーから離された6着だったが、そうした積極策はひとつの時代を築いた王者のプライドだったのかもしれない。
その後、優駿スタリオンステーションで過ごした6年間の種牡馬生活は決して恵まれたものではなかったが、それでもオグリキャップ記念やダイオライト記念に勝ったミツアキタービンや兵庫ジュニアC2着のホクザンフィールドを残すことができた。種牡馬として名を残すことはできなかったが、心優しいチャンピオンの偉大なる足跡はダート交流時代を語るうえで欠かせないものとして多くの人に記憶されているのである。
日高案内所取材班
優勝馬 ライブリマウント
現在の繋養先 ホロシリ乗馬クラブ
やさしい目をした栗毛の馬体がちいさく見える。馬服の下からは冬毛に覆われた体を覗かせているが、不思議なもので鞍を置き、人間がまたがると馬の背筋が伸びたような気がした。
ここは新冠町ほろしり乗馬クラブ。太平洋を見下ろす丘の上に位置するこの乗馬クラブは日本でも有数の自然条件を兼ね備えた乗馬施設だ。 1995年のフェブラリーS(当時)を快勝したライブリマウントは、6年間の種牡馬生活にピリオドを打って、現在はここで乗用馬として幸せに暮らしている。「ここに来た当初はテンションがあがることもありましたが、基本的には優等生でしたね。いまは、乗用馬としてパーフェクト。度胸もあるし、初心者の方でも安心して乗ってもらえると思います」とインストラクターの山畠輝男さんも目を細める。集団放牧にも慣れ、多くの仲間たちと戯れているその姿からは、競馬場で見せた鬼神のような脚は想像できない。
そういえば「私、育成時代のライブリマウントに乗ってました」という女性に会ったことがある。小柄なその女性には失礼かもしれないが、育成時代の優等生ぶりを彷彿させた。
ライブリマウントは、1991年生まれ。同期にはナリタブライアンのいる世代だ。新馬、特別をともにダート戦で記録したライブリマウントは、一度はクラシックへの参戦を試みたが、芝コースで大敗するとあっさりと見切りをつけてダート路線を歩むようになった。ダービーの頃には北海道に移動し、そこできっかけをつかむと同年の秋からは破竹の連勝街道を突き進む。そして、条件戦を快勝するとウインターS、平安S、そしてフェブラリーSと3連勝。当時、ダート重賞3連勝は史上初の快挙でもあった。その後、帝王賞、ブリーダーズGCを連続レコード勝ち、そして岩手公営の南部杯ではそれまで41戦38勝2着3回という怪物トウケイニセイを3着に下して連勝記録を「7」とした。
中央、地方の強豪を次々となぎ倒していくその姿はダート交流時代の新しいヒーローそのものだった。しかし、東京大賞典で不可解な4着に敗れると、まるで燃え尽きたかのように不振が続く。それでも、第1回ドバイワールドCに日本代表として出走し、一度はハナを奪って場内を沸かせた。結果は世界の強豪シガーから離された6着だったが、そうした積極策はひとつの時代を築いた王者のプライドだったのかもしれない。
その後、優駿スタリオンステーションで過ごした6年間の種牡馬生活は決して恵まれたものではなかったが、それでもオグリキャップ記念やダイオライト記念に勝ったミツアキタービンや兵庫ジュニアC2着のホクザンフィールドを残すことができた。種牡馬として名を残すことはできなかったが、心優しいチャンピオンの偉大なる足跡はダート交流時代を語るうえで欠かせないものとして多くの人に記憶されているのである。
日高案内所取材班