馬産地コラム

あの馬は今Vol.8~日本ダービー・ダイナガリバー

  • 2006年05月30日
  • 今も訪れるファンの多いダイナガリバー
    今も訪れるファンの多いダイナガリバー
  • ダイナガリバー
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 1986年 日本ダービー 優勝馬 ダイナガリバー

 1986年。牝馬クラシック路線にはメジロラモーヌという確固たる中心馬がいたが、牡馬戦線は、本番が近づくごとに混迷度を増していた。ミスターシービー、シンボリルドルフ、シリウスシンボリと続いた平穏ムードから一変して「戦国ダービー」と呼ばれた年だった。

 この世代、最初にスターダムにのし上がったのはダイシンフブキだった。デビューから不敗の5連勝。その中には朝日杯3歳S、弥生賞といったグレードの高いレースも含まれていた。しかし、距離が延びるに従い詰まる着差に、不安の声も高くなってきた。代わって、未知の魅力に期待が高まったのはアサヒエンペラー。スケールの大きさを感じさせながらも、慢性の脚部不安を抱え、また当時20歳だった中館騎手の手綱さばきに不安を寄せる声もあった。これらに次ぐのは共同通信杯をレコード勝ちしたダイナガリバー。ノーザンテースト産駒らしく自在性と勝負根性に優れ、名門松山厩舎の看板を背負うに相応しい馬だった。しかし、雪で延期になったスプリングSを使えなかったことが、同馬の体調に微妙な影を落としていた。
 本命なき皐月賞は、よどみないペースから瞬発力争いとなり、これまで悔しいレースを重ねてきたダイナコスモスが、シンザン記念、毎日杯を豪快な追いこみで連勝してきたフレッシュボイスの追撃をクビ差抑えて優勝した。3着アサヒエンペラー以下は6馬身離され、ダイナガリバーは10着と沈んだ。
 迎えたダービー。1番人気はNHK杯を快勝してきたラグビーボールだったが、混迷度はより深まっていた。有力馬に騎乗する騎手が牽制しあうように前半5ハロンが62秒5のスローペースで流れる中、最初に動いたのはダイナガリバーだった。4角で先頭に踊り出ると、そのまま長い東京競馬場の直線を、どの馬にも譲ることなく押しきった。2着には14番人気のグランパズドリームが入り、アサヒエンペラーはまたも3着。以下、ラグビーボール、ダイナコスモスと続いた。
 ダイナガリバーがただ1頭で、長い直線を先頭で走っている間、生産者の社台ファーム創業者・吉田善哉氏(故人)はスタンドから身を乗り出すように「ガリバー、ガリバー」と連呼していた。当時、64歳。「ウマの世界にはダービーという大きなレースができるから、それに勝つ馬を生産したい」と父善助氏が昭和3年に設立した社台牧場から、繁殖牝馬6頭とともに昭和30年に分家、独立。以来、独特の才覚を発揮して12年連続を含みリーディングブリーダーに輝くこと21回。名実ともに生産界のトップに君臨する社台ファームが、ダービーだけは勝てないでいた。生産界の七不思議などとも言われたが、ダイナガリバーの先頭ゴールインは、そのジンクスが打ち破られる瞬間でもあった。
 それから、20年の歳月が流れた。

 「ここで、1番有名な馬はどの馬だい」。洗い場につながれた馬たちを手入れする乗馬スタッフに、観光客が声をかける。1989年にオープンした、ここノーザンホースパークは、新千歳空港から車で15分という利便性も手伝って、年間36万人の人たちが足を運び、馬車や体験乗馬、パークゴルフなどを楽しんでいる。その一角にダイナガリバーがいる。乗用馬ではなく、功労馬として元気な日々を送っている。近年のGIウイナー、トウカイポイントも人気者だが、やはり1番人気は「ガリちゃん」ことダイナガリバーだ。ちょっととぼけたような大流星は相変わらずだ。若いスタッフが「ガリちゃんは、ヘンに意地っ張りなところがあるんですよ」といとおしそうに顔をタオルでふいている。一瞬、嫌そうな素振りをみせるが、実に気持ち良さそうに目をつぶる。
 ふと、遠くをみれば故・吉田善哉さんの銅像がある。あの日と同じようにちょっと離れたところから、ずっと見守るその先には24歳になったダイナガリバーがいた。

          取材5月19日 日高案内所取材班