馬産地コラム

あの馬は今Vol.64~ミホノブルボン

  • 2010年01月22日
  • ファニーフレンズファームで種牡馬生活を送っているミホノブルボン
    ファニーフレンズファームで種牡馬生活を送っているミホノブルボン
  • 同

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 1991年12月8日 朝日杯3歳ステークス(G1)
 優勝馬:ミホノブルボン

 ミホノブルボンを振り返ると、ほぼ同時期(1980年代後半から1990年代前半)に活躍したマラソンの中山竹通選手を思い出す。当時の日本最高、世界歴代3位の記録をたたき出し、ソウル、バルセロナと2度の五輪大会に男子マラソン選手として出場し、ともに4位入賞を果たすほどの優れたアスリートだった。

 彼のレースぶりは“迷い”がなかった、スタートからハイペースを刻んでレースを引っ張り、後続を突き放す。それは逃げにこだわり続けたミホノブルボンのレースにも共通したものである。

 そんなミホノブルボンにとってターニングポイントとなったのが、この朝日杯3歳S(G1)だった。巷間で言われることだが、ミホノブルボンは逃げなければならない逃げ馬ではなかった。抑えても競馬はできる。実際に出遅れた新馬戦では出遅れながらも33秒1という末脚で追い込み、2戦目の自己条件平場戦も2番手から楽々抜け出した。やろうと思えば、どんなレースでもできた。ただし、この馬の能力を余すことなく発揮させるには「逃げ」がベストの戦法。それがミホノブルボンというサラブレッドだった。

 朝日杯3歳S(G1)では、マイネルアーサーに先を譲った。新潟3歳S(G3)でも先行して2着に粘った同馬はスローペースに落として末を温存するタイプの逃げ馬ではない。スタート直後の12秒7を除けば11秒台を刻む同馬のラップは2歳馬にとっては厳しいものだった。実際、前半の半マイルが46秒9で、5ハロンの通過ラップは58秒9。前走の東京競馬場芝1600m戦が47秒4~59秒4だったからコンマ5秒くらい速いペースだ。それでも、ミホノブルボンはガッチリと2番手。直線に入るまで小島貞博騎手の手綱は「持ったまま」だった。最後の2ハロンは11秒7~11秒4。インから足を伸ばすエーピージェットを置き去りにし、外から迫るヤマニンミラクルを抑え込んだ。完璧なレースではあったが。さらに上を目指すために陣営は“逃げ”という戦法を選択し、翌年の2冠となった。その後の足跡はここでは必要ないだろう。

 現役引退後、日高軽種馬農協門別種馬場で種牡馬となったミホノブルボンだったが、現在は生まれ故郷のファニーフレンズファーム(代表・原口圭二さん)で穏やかに過ごしている。

 「まだまだ現役の種牡馬ですよ。でも現実的には明け2歳世代のあとは産駒に恵まれていない」という。「生まれたのが3頭で、2頭はJRAからのデビューになると思います。この馬の仔がJRAで走ることが楽しみです。そして、できることなら少しでも長く競馬場を沸かせて欲しい」と見守られている。
取材班