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名種牡馬アフリートを偲んで

  • 2014年01月31日
  • アフリート(2011年10月撮影)
    アフリート(2011年10月撮影)

 1月22日午後6時過ぎ、功労馬としてブリーダーズ・スタリオン・ステーションで余生を過ごしていたアフリートが、老衰のため亡くなった。30歳だった。

 カナダで生まれ、3歳5月にカナダでデビューしたアフリートは父ミスタープロスペクターゆずりの快足を武器に3連勝。カナディアンダービーに相当するクイーンズプレイトSのトライアルを快勝し、5戦4勝で挑んだ本番ダービーは10ハロンの距離が微妙に影響したの2着に敗れてしまう。

 その後、主戦場をアメリカに移して挑んだジェロームH(G1)は早め先頭から押し切ってG1ウイナーの仲間入りを果たし、続くペンシルヴァニアダービー(G2)も快勝。これら勝利が評価されてカナダの年度代表馬にも選出されている。

 4歳時は短距離に矛先を変えて6ハロンのトボガンH(G1)に優勝したものの、そんなアフリートの前に立ちはだかったのがガルチだった。カーターH(G1)、メトロポリタンH(G1)はともに同馬の前に2着と敗れ、引退レースに選んだブリーダーズCスプリント(G1)は、短距離で快進撃を続けていたマイニングが人気になったレースだったが、後方から追い込んだものの3着。勝ったのは、やはりガルチだった。

 通算成績は15戦7勝。5歳時から米国のゲインズウェイファームで6年間供用されたのち、94年11月に日本へ輸入された。このあたりの経緯を時系列でみると、1992年にデビューした初年度産駒は1993年末の時点で重賞未勝利。2年目産駒も重賞競走には縁がなかった。そんなとき、日本で2年目産駒の1頭が大活躍する。持込馬ゴールデンジャックだった。94年春の牝馬クラシックで大活躍。日米をとおしてアフリート産駒最初の重賞勝利がゴールデンジャックだった。そういう経緯から考えると、まるで導かれるように日本へやってきたアフリート。日本での種牡馬デビューはサクラバクシンオーやラストタイクーン、ウイニングチケット、トウカイテイオー、ビワハヤヒデといった華々しい馬たちと一緒になったが、プリモディーネがファンタジーS(G3)に勝ってファーストシーズンチャンピオンサイアーに輝いている。

 その頃、アメリカでは残してきた産駒が大活躍。幾度となく買い戻しのオファーがあったというが、日本のシンジケートが期待の新種牡馬を手放すわけもなく日本で実績を積み上げた。その数は、1月26日終了時点でJRA通算勝利は1,034。史上13頭目の1,000勝超えも記録している。

 死亡が報じられ、最初の競馬開催日となった25日は中山競馬場のメインレースをアフリート産駒のリアライズキボンヌが優勝した。馬券は外れてしまったけれども、どこか嬉しい気持ちになった。