馬産地コラム

あの馬は今Vol.10~宝塚記念・ハギノカムイオー

  • 2006年06月26日
  • ハギノカムイオー~三石本桐牧場 24日撮影 
    ハギノカムイオー~三石本桐牧場 24日撮影 
  • 同

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1983年6月5日 宝塚記念  優勝馬 ハギノカムイオー

 1982年1月31日。ちょっと誇りっぽい錦糸町場外馬券発売所の片隅にボクはいた。雑音混じりに入るラジオたんぱのイヤホンを頼りに京都競馬場でハギノカムイオーの新馬戦実況に耳を傾けていた。当時、関東在住の人間が、関西のレースをリアルタイムで知るにはそれしか方法がなかった。「華麗なる一族に、また新たなヒーローが誕生!」と叫ぶアナウンサーの声で勝利を知った。何となく嬉しくなって、気持ちを共有している人は誰かいないかとまわりを見渡しても、誰一人として京都の新馬戦などには興味を示している様子はなかった。そんな時代だった。
 ちょっと記憶が怪しいのだが、その当日だか、翌週にテレビの競馬番組でカムイオーの新馬戦を放送した。これも異例中の異例のことだった。まだ馬の値段が4~500万円の時代に1億8500万円という途方もない価格で落札された“黄金の馬”が軽快に逃げ脚を伸ばして後続を引き離していくシーンは爽快で、心踊るものだった。
 
 それから1年半。快晴の阪神競馬場。勝利と敗戦を積み重ねて、逞しさを身につけたハギノカムイオーがいた。ライバルはいない。レースは、53.1%の単勝支持率に応えるようなワンマンショーだった。フライング気味の好スタートからハナにたった同馬は、終始2、3馬身のリードを保ちながら、気持ち良さそうに駆ける。それは、まるで空を飛ぶが如くの快走だった。ヒヤリとしたのは一瞬だった。勝負師の異名をとった田原成貴騎手が2番手追走のカズシゲを4角で早めに先頭に並びかける。しかし、そこまでだった。直線に向いたハギノカムイオーは11秒9から11秒5と加速して後続を突き放した。勝ち時計の2分12秒1はサクラショウリが79年に記録したレコードをコンマ3秒更新するとともに日本レコードのおまけ付きだった。

 その後、母イットー、半姉ハギノトップレディが勝った高松宮杯を快勝。黄金ロードを歩むはずだったが、なぜかそのレースを境に覇気をなくしたようなレースを繰り返して通算14戦9勝で引退。84年から種牡馬となったが、とうとうJRA重賞優勝馬を出すこともなく2000年を最後に種牡馬生活を引退して、功労馬として三石の本桐牧場で穏やかな日々を過ごしている。
 現在のハギノカムイオーは、ふっくらとして、すこぶる体調はよさそうだ。27歳という年齢を感じさせない。今でも多くのファンが同牧場を訪れているという。1億8500万円という数字も、まぶしいばかりの血統も、多くの人間が持っていた憧れや嫉妬、畏怖や慈しみといった感情とはまるで関係のないところで草を噛むハギノカムイオーは、たんなる1頭のサラブレッドに戻って、本当に幸せそうだ。
 
           6月24日取材 日高案内所取材班