馬産地ニュース

追悼~ダイユウサク

  • 2013年12月11日
  • 亡くなったダイユウサク(2010年11月撮影)
    亡くなったダイユウサク(2010年11月撮影)
  • 亡くなったダイユウサク(2010年11月撮影)
    亡くなったダイユウサク(2010年11月撮影)

 2013年12月8日。いつかは、この日が来ると思っていた。
 いや、正直に言えば、浦河町の優駿ビレッジ・アエルの放牧地で静かに時間を過ごしている同馬を見るたびに“そのとき”が刻一刻と迫ってくることを実感していた。

 28歳。1998年のアエルオープン当初からシンボル的存在として、ずっと彼はここにいた。
 アエルの歴史は、そのまま功労馬としてのダイユウサクの歴史でもあった。
 放牧地では少し足を引きずりながら、いつも2歳年上のニッポーテイオーのそばにいた。べったりとくっついているというわけではなく、適度な距離を保ちながら、まるで頼るかのように。

 6月12日という遅生まれゆえに、牧場時代はいつも体の大きなほかの馬にいじめられるような存在だったという。気性が荒々しいというわけではないのだが、どこか人にもなじまず、孤独を愛する馬で、朝、厩舎から出されるときよりも、夕方、厩舎に戻る方が生き々々としていたそうだ。

 3歳10月のデビュー戦は、格上挑戦ということもあったかもしれないが勝馬から13秒離された。中2週の未勝利戦でも7秒3差のゴールだった。このまま抹消されても不思議ない、どん底からのスタートでダイユウサクの競走馬人生はスタートした。しかし、そこから約3年の月日を経て頂点へとのぼりつめた。

 種牡馬としては決して恵まれた環境ではなく、5年間の種牡馬生活で17頭の産駒しか残すことはできなかったが、その中から名古屋競馬の重賞勝馬を残したのもダイユウサクらしい。

 不思議なもので、この日はダイユウサクのオーナーでもあった橋元幸平さんの所有馬ホウライアキコが阪神ジュベナイルフィリーズ(G1)に出走していた。橋元さんの所有馬がG1競走に出走するのはダイユウサク(92年宝塚記念(G1))以来のこと。倒れたのが午後3時半頃というから、本当にあとを託すべく自分と同じ勝負服の馬の出現に安心したかのように静かに逝ってしまったのかもしれない。

 ダイユウサクは、とても人間的な思慮深さを持った馬だった。言葉を交わしたことはないが、彼は人間のことを理解していた。彼の、仕草や表情を注意深く見ていればわかることだ。その彼の訃報に接し、もっとも強く思うことは、もうこの馬のことを書く機会がなくなる寂しさだ。もっともっと書きたいことや伝えたいことはたくさんあるはずなのに、言葉が出てこない。それが残念でならない。