追悼~オレハマッテルゼ
2006年の高松宮記念(G1)優勝オレハマッテルゼが10月30日、種牡馬生活を送っていた浦河町のイーストスタッドで病気のために死亡した。13歳だった。今春の種牡馬展示会には元気な姿を見せていたが、種付シーズン途中から腰萎症におかされ、種付けを中止。種牡馬復帰を目指して担当獣医師、スタリオンスタッフが懸命の治療を行ったが、その甲斐なく帰らぬ馬となってしまった。産駒が活躍し、生産地での期待も高まっていた良血種牡馬の若すぎる死は、残念というほかない。
心身の成長がゆっくりで、後期育成のスタートも3歳の春先からだったという。当然、仕上がりそのものも遅くなり、競走馬登録は3歳4月。だから「俺は、待ってるぜ」だったのだろうか。尾花栗毛の派手な馬体。それ以上に日本を代表する名血。珍名、奇名というよりもオーナーの深い愛情に包まれた名前だったように思う。
デビューは祖母のダイナカール、おばのエアグルーヴが勝馬に名を連ねるオークス(G1)当日。次週には同世代の馬たちが覇を競うダービー(G1)を控えた5月25日だった。出走経験馬相手に2番人気に支持されたものの、このときは競走人生最高体重と出遅れが響いて後方のまま見せ場なく11着だった。
それから、一歩ずつ階段をのぼるようにキャリアアップを重ねた。デビュー2戦目から5歳春の重賞(京王杯スプリングC(G2))初挑戦までの約2年間19戦で掲示板を外したことは1度しかないという堅実派。気がつけば、トップマイラーを狙える位置までのぼりつめ、重賞初勝利をG1レースの舞台で決めた。心身の成長を辛抱づよく待っていたというオーナーに大きなタイトルをもたらす結果となった。
現役引退後は浦河町のイーストスタッドで種牡馬に。ルーラーシップがいる今でも、ダイナカール系唯一の牡馬国内G1勝馬というタイトルは色あせることなく、多くの生産者から期待を集め続けた初年度に87頭の花嫁を迎えたのをはじめ、コンスタントに配合をこなし、初年度産駒が活躍した2012年には自己最多の113頭に種付けし、今年も種付けを中止するまでに5頭への配合を終了していたという。
そして、その派手でひときわ目立つ馬体は多くのファンから愛され続けた。
今、思い出すのは風になびく黄金のたてがみと、透明感あふれる薄い皮膚。それから、その優しげな風貌からは想像もつかないような激しさと旺盛な食欲だ。それらを保つためのスタッフの苦労は、枚挙に暇がないが、それを記すことは彼らの本意ではないはず。
オレハマッテルゼは、もういなくなってしまったけれども、彼の血を受け継ぐ馬たちはたくさんいる。どうかそれらが元気に競馬場に姿を見せる日を待っていてほしい。