馬産地ニュース

追悼~ハクタイセイ

  • 2013年10月30日
  • JBBA静内種馬場で余生を過ごしていた頃のハクタイセイ(2011年1月撮影)
    JBBA静内種馬場で余生を過ごしていた頃のハクタイセイ(2011年1月撮影)
  • JBBA静内種馬場で余生を過ごしていた頃のハクタイセイ(2011年1月撮影)
    JBBA静内種馬場で余生を過ごしていた頃のハクタイセイ(2011年1月撮影)

 過ぎ去っていく時間(とき)は、思い出だけを残し、私たちからいろいろなものを奪い去っていく。

 2013年10月28日朝、第50回皐月賞優勝馬ハクタイセイは、静かにその生涯に幕を下ろした。ここ数年、芦毛馬の宿命ともいう悪性黒色腫が進行していることは耳にしていたからニュースそのものは冷静に受け止めることができた。26歳という年齢は、芦毛馬としては十分すぎるくらいの年齢でもある。

 しかし。
 昭和生まれのクラシックホースが、また1頭、天寿をまっとうしたことへの寂しさは禁じ得ない。 

 ハクタイセイはどこか不思議な馬だった。日本の国民的アイドルホースのハイセイコー産駒。漆黒という言葉が良く似合った父とは対照的に、お世辞にもきれいとは言えない芦毛馬。初勝利まで5戦を要したものの、ダート1400mの未勝利戦に優勝すると、あれよあれよと6連勝。芝コースも、距離の延長も、オープンの壁も、まるで他人事のように勝ち進んだ。2歳7月のデビューから休みなく使われ、9戦目のきさらぎ賞(G3)で重賞初勝利。このあと、さすが歴戦の疲れが表面化して一息入れることになるのだが、それでも皐月賞(G1)に勝った。逃げ込みを図るアイネスフウジンを追い落とし、メジロライアンの追撃を抑えた先には栄光のゴールがあった。史上初となる芦毛の皐月賞馬は、史上3例目となる父子2代皐月賞制覇にもなった。

 しかし、父が沈んだ府中の直線は、その子ハクタイセイにも容赦なく牙をむいた。直線で伸びを欠いて5着。その後、秋を目指す過程で右前脚を骨折し、さらに屈腱炎を発症。復活を目指して長い休養に入り、安田記念(G1)にエントリーするまでに回復したものの病状は再び悪化して現役引退を余儀なくされた。通算成績は11戦6勝。競走馬登録が抹消されたのは1991年7月30日。皐月賞(G1)を制した日から2年以上が経過した夏だった。

 翌92年から、日本軽種馬協会静内種馬場で種牡馬生活をスタートさせたものの、この年、同種場場にはダンシングブレーヴが迎え入れられた。社台スタリオンステーションでは、その前年にサンデーサイレンスを導入しており、好景気を背景に世界レベルの血統は相次いで日本の地を踏んだ。

 静内での種牡馬生活は1年限りで追われるように九州へ移動。しかし、そこでも当時の人気種牡馬マークオブディスティンクションの陰に隠れるように配合牝馬を失ってしまった。その後、静内に呼び戻されるも交配には恵まれず。胆振、十勝と場所を替え、再び静内に戻ってきたのは2010年の暮れのことだった。

 空前の競馬ブームが訪れたその真っただ中で、父ハイセイコーの名前を再び世に送り出した孝行息子だが、急速に変わる時代の前には、父子2代皐月賞というタイトルは郷愁の響き以外に意味を持たなかったようだ。

 寂しくないといえば嘘になる。それでも今は、ありがとうという言葉を送りたい。

 日本軽種馬協会静内種馬場中西信吾場長のコメント
 「ハクタイセイは最後までたくさんのファンに愛され幸せな一生だったと思います。御冥福をお祈りいたします。」