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追悼~サッカーボーイ

  • 2011年10月11日
  • 生前のサッカーボーイ(2011年7月撮影)
    生前のサッカーボーイ(2011年7月撮影)
  • サッカーボーイ(2011年7月撮影)
    サッカーボーイ(2011年7月撮影)
  • サッカーボーイ(2011年7月撮影)
    サッカーボーイ(2011年7月撮影)
  • 生前使用していた厩舎に祭壇が用意されている
    生前使用していた厩舎に祭壇が用意されている

 “それ”を見たのは1987年12月20日。暮れも押し迫った中山競馬場の場内テレビだった。目の前で行なわれた朝日杯3歳S(G1)は6頭立て。馬券的には3頭立てみたいなレースで、当たり前のようにサクラチヨノオーが先頭でゴールを駆け抜けた。脱力感を禁じえないままに、何気なく映し出されるテレビの画面から飛び出しそうな勢いで弾け飛んだ馬がいた。それがサッカーボーイだった。

 サッカーボーイという、どこかヤンチャな少年を連想させる名前と圧倒的なレース。関西テレビの杉本清アナウンサーは、その実況の中で「差が開いた開いた開いた、あのテンポイント以来の着差になるか」と同馬のレースを称えた。ここまで3勝の内訳は9馬身、10馬身、そして8馬身。ワクワクする、という言葉はサッカーボーイのレースのためにあるようなフレーズだった。

 最優秀3歳牡馬を受賞。翌年2月のJRA賞授賞式で吉田照哉さんは「社台ファーム創設以来最高の馬」と同馬を語り、海外遠征を強く意識したスピーチを行なっている。

 しかし、好事魔多し。爆発的なスピードを生み出す筋力はスーパーホースでも、それを支える爪は普通のサラブレッドだった。脚部不安によりクラシックは順調さを欠いた。中日スポーツ杯で皐月賞馬を並ぶ間もなく交し、函館記念(G3)では2頭のダービー馬と2冠牝馬を相手にレコード勝ちを記録したものの、やはり舞台が物足りない。華のあるスターには、それに相応しい舞台が用意されなければならない。晩秋の京都競馬場。尾花栗毛の体を躍らせながら直線で後続を引き離したサッカーボーイはとても美しかった。

 残念ながら、競走馬として海外遠征は果たせなかったが、産駒のアイポッパーが豪州のコーフィールドカップ(G1)で2着。キョウトシチーも国際G1となった初めてのドバイワールドC(G1)へ挑戦している。ほかヒシミラクル、ナリタトップロード、ティコティコタック。サッカーボーイ産駒の活躍にはドラマがあった。記憶に新しいところでは昨年のセントライト記念(G2)。脚質こそ正反対だったが、ヤマニンエルブの大逃げは、久しぶりに心わき立つレースだった。

 「もう、あまり長くないかもしれませんよ」という声を聞いたのは、今年の夏前くらいだった。数年前から患っていた蹄葉炎は、スタッフの懸命なケアにより小康状態を保っていたものの、年齢による衰えは少しずつだが、確実にサッカーボーイの体力を奪っていった。栗毛の体には少しずつだが白いものが混じるようになり、体は少し小さくなったように見えた。

 だから、さまざまな用事でスタリオン事務所に出入りする際、その事務所から一番近いパドックにいるサッカーボーイを可能な限り目で追いかけさせてもらった。それも今となっては思い出のひとつだ。最期まで爪に悩まされたのも、またサッカーボーイらしい最期だったのかもしれない。

 最後にサッカーボーイを見たのは、2週間ほど前のこと。そのときはまだまだ元気そうに見えたのが、その現役時代同様にあっと言う前に目の前から消えてしまった。

 思い返せば、サッカーボーイには最期の瞬間までたくさんの思い出をもらったような気がする。思い出すことはたくさんあるのだが、今はただ、ありがとうという言葉を捧げたい。