馬産地ニュース

追悼~シンボリルドルフ

  • 2011年10月05日
  • 北海道で過ごしていた時のシンボリルドルフ(2009年撮影)
    北海道で過ごしていた時のシンボリルドルフ(2009年撮影)
  • 北海道で過ごしていた時のシンボリルドルフ(2009年撮影)
    北海道で過ごしていた時のシンボリルドルフ(2009年撮影)
  • 2010年秋に東京競馬場でお披露目された時の写真
    2010年秋に東京競馬場でお披露目された時の写真
  • 大勢のファンがシンボリルドルフを一目見ようと集まった
    大勢のファンがシンボリルドルフを一目見ようと集まった

 レース結果でない競馬の出来事が全国ニュースで流れるのは、サンデーサイレンス逝去以来ではないかと思う。日本競馬史上初の不敗の三冠馬シンボリルドルフが4日早朝、30歳でこの世を去った。昨年秋の東京競馬場。ジャパンカップ(G1)当日にお披露目されたとき「現役を知らないようなファンがたくさん来てくれているなぁ。嬉しいよ」と笑顔を広げた和田孝弘シンボリ牧場代表の顔はくしゃくしゃだった。

 現役時代のシンボリルドルフはドメスティックな日本人体質をあおるような敵役の位置づけだった。

 「新潟1000mの新馬戦で、1600m戦を意識した競馬をした」

 「厳寒期の競馬は使わない。ダービー(G1)の前に東京競馬場を経験させたかったから2戦目のいちょう特別(東京競馬場1600m)でダービー(G1)をイメージした競馬をした」

 「デビュー3戦目をジャパンカップ(G1)当日に選んだのは、海外の競馬関係者にこの馬を見せたかったから」。これらの有言実行は、たしかに格好よいが、あまり武士道を重んじる日本人的ではない。

 そして、当たり前のように皐月賞(G1)を勝った。三冠を狙える馬が皐月賞(G1)を勝ったとき、指を1本指し示すスタイルはシンボリルドルフが最初だったはずだ。

 神は粋な演出をする。史上初めて父内国産馬として三冠馬となった“先輩”ミスターシービーのダービーが記念すべき第50回。シンボリルドルフは、その翌年の第51回のダービー馬となった。それは、戦後から隆盛を極めたニッポン競馬が半世紀の時を経てひとつの区切りを迎え、新しい方向へと舵を切ったことを示すような数字でもあった。

 そんなシンボリルドルフだから「同じ相手に何回勝っても意味はない」とバッサリと菊花賞(G1)を切り捨て「それよりも強い馬と競馬をしたい」とジャパンカップ(G1)に意欲を燃やしたのはある意味で必然だったのかもしれない。三冠か、国際競走か、という選択はいつしかファンを巻き込んだ大論戦となった。その結果、陣営が選んだレースは「両方」、だった。

 ここまで、頑なにスタイルを変えず、一枚岩を通してきたシンボルルドルフ陣営にわずかながらのほころびが生じたのはこの論戦からだった。

 その小さなほころびが宝塚記念(G1)の取消を呼び込み、ギャロップダイナの強襲を許した天皇賞(秋)(G1)の不覚へとつながる。それでもシンボリルドルフは勝利すること。そして、その勝利は極力無駄を排除し、冷酷なまでに完璧なものという美学を徹底して勝利を重ねてきた。

 そんなシンボリルドルフが唯一、ライバルを思いやるようなレースをしたことがあった。後輩二冠馬ミホシンザンの挑戦を受ける形になった第30回有馬記念(G1)。結果的に日本での壮行戦となったこのレース、シンボリルドルフが初めて着差にこだわったレースのようにも見えた。2着ミホシンザン以下との4馬身差。それは結果的には前年に接戦を演じたライバルたちの力を証明する結果にもなった。

 それから1年後。再び中山競馬場に姿を現したシンボリルドルフは、用意された引退セレモニーで鞍上の岡部幸雄騎手が手こずるほどに右へ左へと、自由気ままな走りを披露した。その姿は「最後くらいは好きに走らせろ」という主張しているみたいだった。

 そして思い出した。皐月賞(G1)でのビゼンニシキ。ダービー(G1)でのスズマッハ、フジノフウウン、スズパレード。菊花賞(G1)でのゴールドウェイ、ニシノライデン。異なる世代のミスターシービーもカツラギエースも、そして南関東のロッキータイガーも。そのすべてがリスペクトすべき強力なライバルだったことを。そして、シンボリルドルフもまた、血の通った1頭のサラブレッドであったことを。